<嫌われる勇気>④ 第3夜「他者の課題を切り捨てる」
こんばんは!!
本日もお越し頂きまして、ありがとうございます!
「嫌われる勇気」 2013年12月の発売以降、累計180万部を超えた大ベストセラーの本書。5年が経とうとしている2018年 遂に本書を手に取り、読了致しました。
私にとって非常に気付きの多い書となりました。
つきましては、皆さんにも興味を持って頂きたく、更には私自身の理解を深めたい理由から、私なりにまとめてみたいと思います。
当ブログを参考にして頂き、ご興味が沸きましたら、本書を読んでみて下さいませ。
今日は第3夜「他者の課題を切り捨てる」です。
どうぞ、最後までお付き合い下さいませ
以下本文
世界は何処までもシンプルである
複雑に感じるなら、自身が世界を複雑にしている
世界がどうあるかでは無く、自身がどうあるかであり、世界を直視するパラダイムシフトを行う勇気があれば、人は変われ、幸福になることが出来る
第3夜「他者の課題を切り捨てる」
「承認欲求を否定する」
アドラー心理学では、他者からの承認を求めることを否定します。
われわれは「他者を満たすために生きているのではない」のです。
ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、一体誰が自分のために生きてくれるだろうか」と
誰のために生きているか?無為自分のためです。他の誰が自分のために生きてくれるのでしょうか? われわれは、究極的には「わたし」の事を考え生きているのです。
他者からの承認を求め、他者の評価ばかり気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります。他者承認を願う余り、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待になぞって生きると、本当の自分の人生を捨てて、他者の人生を生きることになります。
他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのでない」のです。相手が思うどおりに動いてくれ無くても、怒っては行けないのです。当たり前なのです。
例えば、「神がみているから、善行を積む」、しかしそれは「神など存在しないのだから、全ての悪行は許される」ニヒリズムと背中合わせの思想になりかねません。
神からの承認が得られなくても、神が存在しなくても、われわれはこの生を生きて行かねばなりません。神無き世界のニヒリズムを克服するためにこそ、他者からの承認を否定する必要があります。
社会的地位などの承認を得られて、本当に幸福を実感できるのでしょうか?
他者から承認してもらうとするとき、適切な行動をとったらほめて貰える賞罰教育の流れに沿って、「他者の期待を満たすこと」を手段とします。
しかし、仕事の主眼が「他者の期待を満たすこと」になった場合、その仕事は相当に苦しいものになるでしょう。いつも他者の視線を気にして、他者からの評価に怯え、わたしであることを抑えることになるからです。
では身勝手になれ!と言っているのではありません。傍若無人に振る舞うのでは無く、他者と自分の「課題の分離」するという考え方を、アドラー心理学では選択するのです。
課題の分離
仮に勉強をしない子供がいるとします。この場合、親はどう対処するか?
まず、目の前に「勉強する」という課題がある事を確認します。
アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」という観点から進めます。
子供が勉強するかしないかは、「子供の課題」であり、親の課題ではありません。
ここれ親が子に対して、「勉強をしろ!」と命じるのは、他者の課題に対して、土足で踏み込む介入をしたことになります。これでは衝突は避けられません。
われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題を分離していく必要があるのです。
分離した後は、簡単です。他者の課題には踏み込まない。それだけです。
あらゆる対人関係のトラブルは、他者の改題に土足で踏み込むこと、または自分の課題に土足で踏み込まれること、によって引き起こされます。この課題の分離が出来るだけで、対人関係は激変します。
さて、誰の課題かを見分ける方法はシンプルです。「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考えるだけです。後は本人の課題です。
ここで注意ですが、アドラー心理学は放任主義の推奨ではありません。全てを理解し見守る態度です。そして、援助する容易があることを当該者に伝えておきます。以上です。
頼まれてもいないのに土足で踏み込むことはせず、頼られたら精一杯の援助をします。
しかし、その際までは踏み込まない。「水辺に連れて行くことは出来るが、水をのませることは出来ない」ということわざがあります。アドラー心理学はこのスタンスなのです。
自分を変えることが出来るのは、自分しかいません。
例えば、子供との関係に悩んでいる親は、「子供こそ我が人生」だと考えてしまいがちです。子供の課題まで自分の課題と思って抱え込む。いつしか子供のことばかり考え、人生からわたしが消えている。
どれだけ子供の課題を背負い込んでも、子供は独立した個人です。他者は思い通りになるものではありません。「他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。我が子であっても同様なのです。寧ろ、距離の近い家族だからこそ、もっとも意識的に課題を分離していく必要があるのです。
信じると言う行為もまた課題の分離です。相手を信じること。これはあなたの課題です。しかし、あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くかは、他者の課題なのです。其処に線引きを出来ないままに、自分の希望を押し付ける行為は、ストーカー的な「介入」です。
相手が自分の希望どおりに動かなくても、信じ愛する。アドラーの語る「愛のタスク」には、其処までの問いかけが含まれます。
先ずは「ここから先は自分の課題ではない」という境界線を知りましょう。そして、他者の課題は切り捨てる。それが人生の荷物を軽くし、人生をシンプルにする第1歩です。
自らの生について出来ることは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」それだけです。その選択について他者がどの様な評価を下すのかは、他者の課題であって、あなたにはどうすることも出来ない話です。
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他者の視線や評価が気になるから、他者の承認を求めてやまない。何故か? 課題の分離が出来ていないだけです。評価や視線などは他者の課題であり、自分の課題と思いこむ必要はないです。
例として、五月蠅い上司が居たとします。その上司は常にあなたを怒鳴り、どんなに頑張ってもほめてもくれず、話さえまともに聞いてくれないとします。
そんな上司に認めてもらうことは、最優先で考える「仕事」でしょうか? 仕事とは社内の人間に気に入って貰うことではありません。上司があなたを嫌っている。ならば此方からすり寄る必要などないのです。
直属の上司から疎まれては仕事にならないと? それは「人生の嘘」です。その五月蠅い上司を、あなたの仕事がうまくいかない口実としているのです。仕事が出来ない理由に、嫌な上司を必要としているのです。この上司がいなければ、私はもっと仕事が出来る・・・っと。「仕事をしたいくないから、嫌な上司を創り出す」あるいは「出来ない自分を認めたくないから、嫌な上司を創り出す」
課題の分離が出来ていたとすればどうなるでしょうか?
上司がどれだけ理不尽な怒りをぶつけてこようと、それは「わたし」の課題ではない。理不尽な感情は上司自身が始末するべき課題である。すり寄る必要も無いし、自分を曲げてまで頭を下げる必要もないのです。
なすべきこととは、自らの人生に嘘を付くことなく、自らの課題に立ち向かうことです。
まずは、「これは誰の課題なのか?」を考え、課題の分離をしましょう。
↓
何処までが自分の課題か? どこまでが他人の課題か?
冷静に線引きをします。
↓
他者の課題に介入せず、自分の課題には誰一人として介入させない
これが、具体的且つ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点です
さて、課題の分離は、対人関係尾最終目標ではありません。入り口です。
良好な対人関係を結ぶには、ある程度距離が必要になります。差し伸べれば手が届く、けれど相手の領域には踏み込まない、そんな適度な距離を保つことが大切です。
相手がどんな働きかけをしてこようとも、自分のやるべきことを決めるのは自分です。
アドラー心理学には、常識へのアンチテーゼという側面があります。原因論を否定し、トラウマを否定し、目的論を採ること。人の悩みは全て対人喚起のな意味だと考えること。また、承認を求めないことや課題の分離も、全てが常識へのアンチテーゼでしょう
「嫌われる勇気」
他者からの承認を選ぶのか、それとも承認無き自由の道を選ぶのか。大切な問題です。
他者からの承認を選ぶ生き方は、他者の視線を気にして、他者の顔色を窺いながら、他者の望みを叶えように生きること。道しるべになるかもしれませんが、非常に不自由な生き方です。
どうしてそんな不自由な生き方を選ぶのか?
要するに誰からも嫌われたくないのでしょう。
誰からも嫌われないためには、常に他者の顔色を窺い、あらゆる他者に忠誠を誓う。10人の他者がいたら、10人に忠誠を誓う。確かに10人に嫌われる事はないでしょう。
しかし、これはポピュリズムに陥った政治家同様に、出来ないことまで「できる」と約束したいり、取れない責任まで引き受ける事になりかねません。
他者の期待を満たすように生きること、自分の人生を他人任せにすること。これは、自分に嘘を付き、周囲の人々に対しても嘘を付き続ける不自由な生き方です。
不自由な生き方を選んだ人は、この瞬間を自由に生きている人をみて「享楽的」だと批判します。それは、自らの不自由な人生を納得させるための、「人生の嘘」です。
自分自身が本当に自由を選んだ大人なら、そんな言葉は出てきません。寧ろ、自由を応援するでしょう。
誰でも他者に嫌われる事など望んでいません。
他者から嫌われたくないと思うこと。これは人間にとって、極めて自然な欲望であり、衝動です。カントはそうした欲望を「傾向性」と呼びました。
本能的欲望、衝動的欲望ということです。この傾向性におもむくままに、坂道を転げ落ちる石のような生き方が「自由」ではありません。それは欲望と衝動の奴隷でしかない。
本当の自由とは、転がる自分を下から押し上げていく様な態度です。傾向性に抗い、転がる自分を停止させ、坂道を登っていく。其れこそが自由な生き方です。
承認欲求は自然な欲望、傾向性です。他者からの承認を受けるために坂道を転がり続けるのですか? その石は自らを摩耗させ、かたち無きところまで丸みを帯びていきます。選ばず出来上がった球体が「ほんとうのわたし」と言えるのですか?
アドラー心理学では「すべての悩みは対人関係である」と考えます。
われわれは対人関係から解放されることを求め、対人関係からの自由を求めている。
宇宙に一人で生きることなどは絶対に出来ない。
では、自由とは何か?
「自由とは、他者から嫌われることである」
あなたが誰かに嫌われている。それはあなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針にしたがって生きているしるしなのです。
自由を行使したければ、そこにはコストが伴います。そして対人関係における自由のコストとは、他者から嫌われることなのです。
他者からの評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないコストを支払わない限り、自由の生き方を貫くことは出来ないのです。
他者にどうおもわれるかよりも先に、自分がどうあるかを貫く、それが自由に生きるということです。
「嫌われたくない」と願うのはわたしの課題ですが、「わたしのことを嫌うかどうか」は他者の課題です。わたしを良く思わない人がいたとしても、其処に介入する事は出来ません。「馬を水場に連れて行く」努力はしましょう。しかし、其処で水を呑むかは、その人の課題です。
幸せになる勇気には、「嫌われる勇気」が含まれるのです。
この勇気を持ち得た時、対人関係は一気に軽いものへと変わるのです。
最後に対人関係のカードは常に「わたし」が握っていることを知ってください。
多くの人は、対人関係のカードを他者が握っていると思っています。故に「あの人は自分のことをどう思っているのだろう?」と気になるし、他者の希望を満たそうとし
てしまう。
課題の分離が理解できれば、すべてのカードは自分が握っている事に気が付くでしょう。
わたしが変わったところで、変わるのは「わたし」だけです。その結果として相手がかわるかは、関与出来るところではありません。他者を操作する手段として自分の言動をかえるのは、明らかに間違った発想になります。
対人関係というと、「ふたりの関係」や「大勢との関係」をイメージしていまいますが、先ずは自分なのです。承認欲求に縛られると、対人関係のカードはいつまでも他者に握られたままです。
人生のカードを他者に委ねるか?それとも自分が握るか?選ぶのはあなたです。
私は、今年の目標を「自由」としました。
行動した結果、当然ながら現状はこの状態にあります。
正直、感情を論理で割り切れない時もありました。
しかし、この「嫌われる勇気」を知った時、現状が当然の帰結であると知りました。
自身の選択に確信を覚え、更に課題を分離することで、論理の割り切りが恒常的なものへ変わりました。
この世にアプリオリ(絶対的)は存在しませんので、何事も人それぞれです。
そして、絶対的正しいことが存在しないのであれば、自分の選択を疑う余地などありません。
自由を選ぶという選択。自分の人生を生きるという選択。
これを選べたことに、自分をほめてやりたいと思っています。
自分素晴らしい。
皆様も、どの様な選択であれ、選んだ自分を褒めてあげて下さい。
あなたを一番知り、あなたを一番褒めてくれるのは、あなたしかいなのですから。
」
次回は第4夜「世界の中心はどこにあるか」をまとめます。
最後までお読み頂きまして、ありがとうございます。